牡鹿頂山

 頂山は明治32年、宮城県は大崎市古川荒谷(旧栗原郡荒谷村)に生まれ、本名を春吉と称します。そして地元の小学校を卒業すると好きな彫刻で身を立てようと決意しましたが、 まもなく結核のため、当時市内荒谷にあった隔離部屋に入院致しました。しかし、闘病生活中にも向上心やみがたく病室に木彫の道具をもちこんでは独りでコツコツとノミを振るい勉強に打ち込んだといわれています。

 その春吉少年の彫刻にかける若い情熱に斗瑩稲荷神社の橋本 純宮司(現宮司の2代前の宮司)が心を打たれ、自宅の一室を改造しアトリエとして提供、またスポンサーとなって親身に世話をつづけました。私の祖母も遊んでもらった記憶があるそうです。こうして多感な少年時代の一時期をこの隔離病院ですごしましたが、病状もしだいに快方に向かったことから退院し、今度は一流彫刻家をめざして大正14年に上京、羽下修三、関野聖雲、北村西望に師事する。東京では木彫を製作して売りながら苦しい生活を続け、帝展(現在の日展)入選をめざし、血のにじむような努力をつづけました。
そして、大正15年の第7回帝展にはじめて「頂山」の号で、高さ2.3mもある裸婦像「初夏」を初出品して念願の初入選を果たし、注目されるようになりました。その作品について当時、高村光雲(高村光太郎の父)は「彗星の如き作品である」と評し、大いに驚嘆したといわれています。現在当社にある「浴日」は第14回帝国美術院展に入選した作品です。

 その後も頂山は個展など開き、数多くの作品を世に発表し将来を大いに嘱望されましたが、こうした無理から結核が再発して再び病床に伏すようになり、2度とノミを手にすることなく昭和13年5月、妻もめとらずに他界致しました。満39歳の若さでした。頂山が生前最後に帝展に出展し入選した「浴日」はその後の遺言によって頂山の友人から斗瑩稲荷神社へ奉納され、今でも大切に保管されていますが、頂山の大作は戦火に焼かれる等でほとんどが消失しているそうで、2メートルを越す作品は当社の「浴日」のみとされています。お世話になった方への感謝の気持ちが、作品を後世に残す結果になりました。
 他に、「山男像」、橋本純宮司をモデルとした「神主象」、石膏像や、神社近くの墓地から母親の頭蓋骨をこっそり掘り起こし彫った「しゃれこうべ像」があります。

牡鹿頂山 略歴
明治32年
0歳

4月28日栗原郡荒谷村に父貞之助、母はるゑの次男として生まれる。本名春吉。

明治44年
12歳
長岡小学校卒業後、栗原郡一迫村真坂の仏師、宮野久月(義雄)に弟子入りし、彫刻に励む
大正2年
14歳
このころ帰郷し、農業を手伝いながら斗瑩稲荷神社の作業場を借りて制作に励む。
大正8年
20歳
築館町での荘丁検査後、仙台の五十人町で修行を続け、上京。長崎平和記念像の作者として知られる彫刻家、北村西望の門下となる。
大正15年10月
27歳
第7回帝国美術院展 「初夏」初入選
昭和2年10月
28歳
第8回帝国美術院展 「銀河」入選
昭和3年10月
29歳
第9回帝国美術院展 「はごろも」入選
昭和4年5月
30歳
第1回国際美術協会内国展覧会に出品(於、東京府美術館)
昭和4年10月   第10回帝国美術院展 「(作為品名不詳)」入選
昭和5年3月
31歳
第2回聖徳太子奉賛美術展に出品(於、東京府美術館)
昭和5年10月
31歳
第11回帝国美術院展 「春」入選
昭和6年10月
32歳
第12回帝国美術院展 「新緑」入選
昭和6年11月
32歳
第2回東北美術展 「猛牛」が東北美術賞を受賞
昭和7年10月
33歳
第13回帝国美術院展 「沐浴」入選
昭和8年10月
34歳
第14回帝国美術院展 「浴日」入選
昭和9年7月
35歳
大崎市古川馬放の長照院本尊修復。その後病をえる。
昭和13年
39歳
5月31日、宮内庁指定山川病院にて死去。大崎市古川荒谷の光明寺に埋葬される。
昭和56年12月
宮城県美術館会館記念特別展第二部「所蔵作品貼 みやぎの美術」に「浴日」が展示
平成16年10月
古川市民ギャラリー緒絶の館企画展「幻の彫刻家 牡鹿頂山展」開催
 
 

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