源義経・白狐の伝説

 上の写真は昭和55年に老朽化の激しかった社務所を新築去る際に発見された巻物です。 専門家の話によりますと、約400年くらい前の巻物とのことで、内容は当社縁起に関するものでした。約400年前からこのような事が言い伝えられていたという貴重な資料だと思いますので、その内容を下記に記します。(○の部分は解読不可能でした)。


斗瑩稲荷神社縁起


仰(そも) 當山に鎮座まします處
左衞門尉四郎稲荷明神(さえもんのじょうしろういなりだいみょうじん)は、人王、八拾貮代、後鳥羽ノ院の御宇、元暦二年の頃、九郎判官源義経公 大和の國吉野山に御身をよせられける時 都に馴深候ひし白拍子静御前と云る女房も御供におわしえるに 彼静御前は鼓の名人也 義経公 すで○に世をしのび候へし愁をなぐさめ 或徒然の節、鼓をしらべければ何處ともなく白狐来りて御前に首をうなだれ忽(ゆるがせ) 姿を変し人となり、静御前のしらへられし鼓の音色に應(おう)じ舞をなす故に義経公問給へけるは「汝は白狐と見えしが忽人と○○我を慰し事神妙なり。何處より来りしぞ。」と有りければ 白狐答いけるは「仰 我は人皇拾二代景行天皇の御宇 江州栗本郡多賀卿に相生ぜし也 今に多賀の郷に住居たり 四拾四代元正天皇の御宇まで我日本に天文暦書兵書等なき御厭(おいとも)あそばして 吉備大臣に勅せられ唐土に遣され暦書[??(ほき)内傳]兵書[六韜(ろくとう)三略]或は碁の學を傳えさしめ給ふ 帰朝の後、暦書は安部家に相傳して其職に宛(あてが)られ、亦兵書は大江家に相傳して其職に宛らる 又鞍馬の宝蔵に納りて代々の重宝也 其頃は已(すでに)江州栗本郡多賀の社内に住居たりが 吉備大臣の入唐し候へしを厭ひ奉り我白狐通をもって先に入唐して玄宗の妾と成 碁に○せり 已に吉備大臣入唐し候へし折から安祿山の計らひにて種々難書を読しむ我其折、白狐通を以(もって) 吉備大臣の心中に入け(?)り 吉備大臣に難書を読しむ 次に吉備大臣、碁を以 難事を計り 玄宗と碁を圍(かこま)しむ 我其折、碁石を壱っ呑 吉備大臣に碁の勝利を得さしむ 安祿山按心にて種々の難書を計れど 終(つい)にかなわず。また吉備大臣帰朝せし出帆の折から安祿山の計らひにて海濱にて吉備大臣を討たす 其時我則(すなはち)安祿山をたばかり討の先陣と偽り先に向ひ、吉備大臣を無難に出帆させ帰朝せしむ 我自害と偽り 白狐通を以 吉備大臣を慕ひ守護して帰朝するなり夫より{白狐入唐して吉備大臣する事は安部仲麻呂入唐記並衆州白狐傳に委細詳}国家の御長久、名將無難守護し奉る 
又 若は日本無雙の名將に御座候 按臣梶原が讒言(ざんげん)によりて斯(かく)成給ふの御いたわしさに御跡慕ひ来るなり 誠に此鼓は我千年の齢を保し 處王若に随ひはかなくみまかりして其皮を剥ぎ去り帝御遊音樂の器に備ひたる 今此鼓は実は我母也 若願(ねがはく)ば我に此鼓を与へ候ひ、然らば是より一日片時も若の御傍を放れず何國までも御供仕り御難を祓ひたてまつるべし」と申上ぐれば尚も舞成す
義経公其旨を感ぜられ則(すなはち)其鼓を与へらる世に初音の鼓是也。亦忠信自害の後 彼白狐則姿を変じて左衛門尉四郎忠信となり義経公に相随ふ 吉野の衆徒逆心を起し義経公を殺害せんとする時白狐通を以 忠信の勇力を増し術を盡(つく)し逆徒覚範等を討ち義経公の御難を救い奉る
夫より義経公吉野山を立候へて北陸道を歴て奥州に下向し候ふ処に北國の関所嚴固み通路も固し。其時白狐通を以 千変萬変の術を盡し所々の関所守りをすかし、無難に北國を通り、出羽の國にいたり佐藤庄司の家に立寄、忠信が母を尋て對面す 母云けるは、「忠信は吉野にて自害と聞きに、今亦此処に對面する事不思議なり、悉く亡魂の変化にかあらんや」と云はければ、白狐通を以て答て申けるは、「忠信吉野にて自害と聞へしは偽りなり 我已に義経公の御供仕り奥州へ下向をいそげとも御母に對面し御安心を成させんため熊○爰(ここ)に来るなり」と云はれければ母大きに嬉び「誠に不思議の對面や」と云ければ則暇(いとま)を乞、わかれの袖を拂ひけり
夫より 義経に御供して急ぎ奥州に下向し亀割峠を越へ尿前より鳴子通にて○か小嶋や白糸の滝を詠(ながめ)させ 玉造郡を過ぎ 栗原郡荒谷なる處に霊地あり 斗瑩山と謂(いう) 此處境内奇景にして眺望の詠 既に吉野に等し、故に義経公同(?)左衛門尉も暫 滞畄(たいりゅう)して憩ふ。夫より平泉の方ひ起き 秀衡の方に止り居れける、左衛門尉も同相随ひ守護する処  文治四年 秀衡薨ず 故に秀衡の二男泰衡に家をつがしむ所 鎌倉より泰衡を計ひ義経公を退しむ。其時左衛門尉四郎 千変万化の術を盡さんとする処 義経公候ふ様
「功成り名挙げ 身退く 天の道なり 故に汝が辛労する事なかれ 我今 兄右大將の旨を重んじ 泰衡が家を去り 自身を退くなり 我と汝と君臣の道厚く 誠に汝が術を盡して我を守護し 難を救ふ事の忠義を盡せし事何を以てか報ぜん 何か賞を与へん 我流浪の身にして空しく汝と相別るヾ事 腸を断にしのびず 汝は本身を顕(あら)はして國家を守護すべし」とありければ 左衛門尉も大きに歎き 君臣ともに感涙に絶ず 詮方もなく相別れける。夫より左衛門尉 再び此地に還り 寺に入りて住僧に告ぐるに「我は江州栗本郡多賀に社内に住居たる白狐なりしが義経公吉野山に身を寄せられし折から守護し奉りて奥州まで御供仕て下向するなり 猶(なお)義経公難事を救ひ 忠臣忠信の志を慕ひ 我また身を変し左衛門尉四郎忠信と名乗り 義経公の先途を立て 是?下向するなり 然れども義経公運命薄してはかなく東夷に身を忍せ候ふ 我永く義経公の先途を守護し奉らん 爰(ここ)以て我を稲荷明神と祭り候はじ永く山門の繁昌を守護し國家の泰平を守護し 尚 五穀成就 海上安全魚漁を守護し 或は鬮(くじ)[俗に無○会頼母子なり]當り 女人安産 又無実の刑罪、剱難 諸人の危難を防ぎ 賊難を除き 諸人一代の中に何程の大願にても三度までは成就させしむ。亦何程の大難にても三度までは救い候ふと誓請に此度栗原郡と云はがもとの栖の栗本に名も似たり 又我母のなきがらを以 造りし鼓を義経公より賜はりし故に我が身にまとひ是まで来る也 願ば此處に母のなきがらを収めて永く守護奉らん 依て先に誓を立つる所 疑ふ事なかれ」と告げて忽(たちまち)金色の白狐となり候ひ 岩窟に入り候ふ 依て寺僧良雲法師 則彼の誓願に託して神社を建て「左衛門尉四郎稲荷大明神」と崇め奉るなり。夫より靈験あらたにして万民悉く信仰して願望立處契ひ遂るなり
依て寛永の頃 正一位を賜る
夫より以来 明神の威徳靈験を増し 利勝彌ヾあらたにして諸人の願望立處に成就するものなり
六十六代一条天皇の御宇に此御宮に鎮座す、御祭神 豊受姫の大神とは常に左衛門尉四郎の神を天かけり國かけらせたもふなり

(解読 豊原誠一)
付 記
 
◎吉備大臣(吉備真備・きびのまきび)
菅原道真と並ぶ大学者。
岡山県西部の下道氏という地方豪族の出身。七一六年唐に留学、七三五年帰朝。多くの典籍、武具、楽器をもたらす。十九年も唐に留め置かれたのは、玄宗皇帝がその才を惜しみ、帰国させなかったためという。帰国後は、聖武天皇に愛され、七三七年に五位に列する。皇太夫人宮子、皇嗣阿倍内親王(後の孝謙女帝)に絶大な信頼を得、七四六年に吉備朝臣の姓を賜わる。七五〇年、突然筑前守に左遷される。七五二年、遣唐使として十七年ぶりに唐に渡る。鑑真を伴って帰国する。大宰大弐となり、七五六年に怡土(いと)城を築き、大宰府防備の策を献ずる。孫子や孔明の兵法を講じた。四年京に帰任し、藤原仲朝呂の乱に政府軍の参謀として活躍する。参議、中納言、大納言を経て、七六六年右大臣になる。 七七〇年光仁天皇即位時に辞職し、七七五年八三歳で亡くなる。
◎暦書は安部家
 吉備真備は天寿を全うする直前、「秘伝の『金烏玉兎集』(陰陽道の聖典)は恩人である安部仲丸の子孫に伝えよう」と思い、常陸国筑波山麓に住む仲丸の子孫の童子に譲り渡した。この童子は後の安部晴明。
◎兵書は大江家
  平安時代以降、文章道を家学とした大江家が管理した。大江匡房(おおえのまさふさ、一〇四一〜一一一一年)が前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎源義家に伝授したに留まり、以後一般には見ることのできない隠れ兵書となった。
◎玄宗
  六八五〜七六二)中国、唐第六代の皇帝(在位七一二〜七五六)。即位後よく政治を整え、年号にちなんで「開元の治」といわれた。また李白・王維ら文人の活動を保護し,貴族文化の隆盛をもたらした。晩年は政治に飽き、楊貴妃への愛に明け暮れた為、七五五年「安史の乱」がおこり、翌年、子の粛宗に譲位した。
◎安禄山(あんろくざん)
七五七年没、唐代の武将初名は軋犖山(あつらくさん)。玄宗皇帝に信任される。七五一年、三節度使を兼任。七五五年、挙兵(安史の乱)し洛陽を陥れる。七五六年、皇帝を称する長安も占領し勢いをふるった。七五七年、子の慶緒に殺される。反乱は史思明(ししめい)に受け継がれ、安史の乱として唐朝衰退のもとをつくる。
◎安史の乱(あんしのらん)
  中国唐の玄宗の時代、節度使(地方の軍団長)安禄山とその部下の史思明がおこした反乱(七五五〜七六三年)。玄宗皇帝が楊貴妃への愛におぼれて、政治を省みない為に起きた。唐は異民族の助けを借りて反乱を鎮めた。これ以後,唐はおとろえた。
◎佐藤庄司
佐藤庄司とは、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれ、また、丸山の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。(先日、HPを見て佐藤家の御子孫の方が参拝されていかれました。)
 
斗瑩稲荷神社縁起 pdfファイル
 
※ちなみにコチラはこの巻物が発見される前に言い伝えられていた由緒です。

989-6252 宮城県大崎市古川荒谷字斗瑩28
斗瑩稲荷神社々務所(とっけさま)
電話0229-28-2644
FAX0229-28-2684
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